北西航路の歴史の概要
15世紀終わりから20世紀にかけて、欧州列強諸国は航海者や探検家を北極海域に送り出し、北アメリカ北岸を回って東アジアに向かう海路を発見しようとした。当時は喜望峰回りやメキシコ経由でヨーロッパからアジアに至る海上交易路が開発され始めた頃であったが、より短いアジアへの航路が未知のアメリカ大陸の北にはあると考えられていた。その発見に熱心だったのはフランス・オランダ・イギリスといった後発の諸国だった。1494年、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介でスペインとポルトガルの間にトルデシリャス条約が結ばれ、ヨーロッパ以外の新発見の土地の両国間での分割が取り決められたが、この結果フランス・オランダ・イギリスなど出遅れた諸国は、新領土の獲得競争からも既存のアフリカ回り・南アメリカ回りのアジア行き航路からも締め出された。イギリスは、ヨーロッパから北西に向かい北アメリカの北岸を回ってアジアに至る仮説上の航路を北西航路(Northwest Passage)、ヨーロッパから北東へ向かいシベリア沖を経てアジアに至る同じく仮説上の航路を北東航路(Northeast Passage)と呼んでその発見を目指した。すでに中南米を確保していたスペインも、イギリスやフランスより先に北西航路を発見しようとした。こうして、アジアへの最短航路発見の夢が、ヨーロッパ人による北アメリカ大陸の東海岸と西海岸に対する探検活動の動機となる。
当初、探検家たちは北アメリカ大陸中央部を横断する海峡や河川の発見を目指したが、そういうものがないことが分かると、北の方からアメリカ大陸を回る航路の探索に注目した。こうした航路の存在が信じられた理由の一つに、当時の科学者の素朴な考え、例えば「海水は凍らない」という観念があった(18世紀半ば、ジェームズ・クックは南極海の氷山が真水でできていることを報告し、海水は凍らないという仮説の確証になると考えられた)。海水が凍らないならば流氷があるのは大陸周辺の一部海域のみということになり、北極を通る海路もどこかにあるはずとされた。また海流や海路についての研究を成し遂げた19世紀半ばのアメリカ海洋学の父マシュー・フォンテーン・モーリーは、北大西洋で捕獲されたクジラから北太平洋の捕鯨船のモリが見つかったことから太平洋と大西洋が北極海でつながっていると推論し北西航路や北東航路の可能性を主張した。同時にモーリーは、メキシコ湾流や黒潮など北方へ向かう暖流が北極海で海面に上昇すると考え、北極点付近には氷がなく航行可能な開水域が広がっていると推論した。こうした説が広く信じられたことから、何世紀にも亘り北西航路を求めて極寒の海に探検隊が送り続けられることになる。特に有名な失敗は、1845年に出発したジョン・フランクリンによる北西航路探検隊の全滅である。1906年になりようやく、ロアール・アムンセンがヨーア号(Gjøa)でグリーンランドからアラスカまで航海することに成功した。これ以後、氷圧に耐えられる船による航海が何度も行われている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
北西航路はヨーロッパから北西方向へ、北アメリカ大陸の北側を通り大西洋と太平洋を結ぶ航路。
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